「科学と技術」が...「未来を創る」
投稿日:05.25.2010|カテゴリー:Blog|コメント・トラックバック:0件
ホームページを開設して、余韻がまだ覚めやらぬなか、あっという間に10日が経過しました。励ましのお言葉や久しぶりに御連絡を頂いた方々に感謝・感激しております。このHPが理解できない、長いとの厳しいお言葉にも素直に耳を傾けながら、準備中も早く完成させ、より良いものにして参ります。末永くお付き合い下さい。
「50年前とは比べものにならないほど良い生活を享受できるのは、科学技術の発展の賜物である」との言葉に異を唱える日本人は誰一人いなと思います。一般的に「科学技術」という時は、「科学」と「技術」を同等のものとして表現していますが、ひとくくりに述べるにはあまりにも異なる概念といえます。
科学は人の頭の中で生まれ育ち(実験による検証・再現性の確認は当然必要です)、机の前で完成させるものです(自然を式・言葉で表現する)。科学の成果を多くの人と「共有する」努力が払われているのが学校教育=勉強ということもできます。「共有する」事は大変重要で、歴史から判ることは、一定量以上の人達が新しい理論・法則を理解し、縦横無尽に使えるようになった頃(それが50年、100年なりの周期で現れる)、応用科学や、その成果としての技術が飛躍的に向上して、生活様式が劇的に向上したと云う事実です。逆に言うと、多くの人が解る教育(伝達)がなければ、進歩は無いという言い方も出来ます。量子力学が世に出た時は、極限られた人しか理解できませんでしたが、知識の一般化(整理・組み換え・他分野との関連の見直し、そして融合)の傍ら、効率よく理解できる教育を実現する為に沢山の例題を作る、或いは、積極的に言葉・様式を変えた書籍の出版に力を注ぐなど、多くの人達の努力の結果、普通の大学生が理解できるようになったといえます。学問とは先人の成果の積重ねですから、成果が(人口増加も加わり)近年急速に膨れ上がっています。だから、専門的な知識を取得する量も半端な量ではなくなっています(一人の人間が全部を知ることは極めて難しくなってきています)。これを効率よく教える「教育」は極めて重要な先輩・大人の課題・義務でると考えます。今の大学などの教育のあるべき姿は、例えば古典力学(ニュートン力学)から量子力学まで如何に効率よく達することができるかが重要で、決して古典力学で終わらないこと。加えて最先端の技術を多くの大学生が判るようにする(人口に膾炙するくらい簡単な言葉で。言葉が簡単だから、内容が簡単であると限りません)事と考えます。教える側も教えられる側もやらなければならないことがあまりにも沢山あり、皆さん時間が足りないのが現状のようです。
一方、技術は、科学に比べ極めて泥臭いと感じます(悪い意味ではありません。汗をかくのです)。かちとりたい課題に対して全てを判って実施することは不可能なので「未解決、不明な事柄を包含しながら」、必死に理論と経験および勘を頼りに課題を制御しようと努力し、「こうありたい」との思い=「夢」「希望」に向けて立ち向かう姿勢の積み重ねが技術の進歩となってきました。技術は、机の前では完成することができません。思い通りの「物」「製品」を眼前に生み出し、思い通りに動かすことができた時、初めて完成と言えるものなのです。そして成果は先行者利益を得るという意味で独占される権利を有します。
科学と技術は成り立ちから、存在意義や形態が異なります。広く公開されることに価値がある「科学」と、独占が必要「悪(?)」と考えられているものが「技術」であるということです。どちらも人類にとって重要です。共通点は、専門性が深まれば深まる程、人々に意味や意義が伝わりにくくなるが故に、理解してもらうためには沢山或いは効率よく語らなければなりません。どちらも人から人へ伝えなければ(会社であれば当然社内の人間に対して)、消えて無くなる可能性があります。故に専門性は、広く多くの人に理解される努力が常に必要です。技術について一言付け加えておくと、技術は例え中身がブラックボックスであっても、便利で、有効活用できるアウトプット=製品をつくりだすことができ、積み上げたり、組み込むことにより簡単に融合ができるのが「技術」の特徴です。私たちの生活はこの恩恵に与っているといえます。
コンピュータという道具・技術について、
道具により生活が一変することは皆さんご存知と思います。例えば「火」を手に入れた人類はそれ以前に比べ、食べられる食物の種類を劇的に増やすことができ、その食物の栄養を効率良く吸収できるようになり、結果、身体も頭脳も劇的に変化させることができました。コンピュータも「火」と同様、人類の歴史を変えた道具として記録されるものではないでしょうか。このコンピュータの出現は、仕事や教育、人の考え方、生き方を変えてしまうほどのパワーを持っています。まだまだ使われ方が未熟な部分が多くありますが、更に発展するのは確実です。そして、誤解を恐れずにいえば、コンピュータの表現する世界は人の頭の中のものを表現する道具、頭の中の世界を表に出す道具として記録されると思います。加えて、世界中のコンピュータが繋がったことにより、全く別の世界が出現しています。知識のオープン化が進み、従来ではありえないような事象、例えばある一人の頭で思いついた事ですら瞬時に全世界の周知の事実となりえます。「意見(知?)の共有化」ともいえます。
―――こんな言葉があります。御存知でしょうか?「一人はみんなのために、みんなは一人のために」私は小学校の先生に教えてもらいました。コンピュータ上では「一人はみんなの意見を知り、みんなはひとりの意見を知る」「一人はみんなの意見を尊重し、みんなは一人の意見を尊重する」のように変えても違和感がありません。個人主義の時代であるからこそ認められる言葉なのかもしれません。一方、今でも袋叩き、村八分、黙殺・・・。混在は世の常です。――――
その中で、従来とは異なる、自由と平等が生まれつつあるように感じます(一方、独占や恣意性も感じます)。平準化と特異化。・・・革命により出現した民主主義にも似た(従来の革命の形は、多くの人の心の中に、矛盾、不条理が積みあがりエネルギーのそれが起爆剤となっていましたが、現在はコンピュータによって活性化エネルギー(越えなければいけない山)が低くなってきた。この敷居の低い世界が出現して、誰でも参加できる(=平等)好条件がそろい始めているのではないのでしょうか。そんな時代だからこそ大きな者が更に大きくなる、持つものの手のひらでしか私達は自己主張ができない、そんな一面もまた真なのです。現状の大きな流れの中で、では、私達個々人は何をしなければならないのでしょうか?
―――――それは、力を蓄え、変化に対応する準備をしなければなりません。
それをするには、
明確な目標を持った上で、本物になる。
「プロフェッショナル」から学び、ベクトルと到達点を確認し、
「経験者」から学び、間違いの無い対応をすると共に、
「歴史・過去、古典」に学ぶ
が正解と考えます。何故か?個人で全てを決定・決断しなければならない時が来たからです。学ぶのが無理な場合は、プロフェッショナルを味方に付ける事が正解です(教えてもらう指導者・教師を探しましょう)。真空からすばらしい新しく考えが突然生まれてくることは絶対ありません(物理学はちょっと異なる事をいいますが・・)。そして、過去を学ぶ(歴史、古典を学ぶ)のは、人間の本質は変わらないという前提が根底にあり、歴史は元には戻らないが螺旋状に繰り返しながら変化する(弁証法です)と哲学は言っていますが、何故そのようになるのか私は知りません。しかし、歴史、古典を学ぶということは、現在との比較が出来るし、願えば疑似体験・トレーニングすることもできる。或いは、いくつかの選択肢を持つことが出来るようになることと考えます。そして、すでに起こった未来を知ることもできます。但し、まったく同じ過去の環境や状況は決してありませんけれど。
今、学ぶチャンスは全ての人に平等に横たわっている素敵な時代です。少し前までは出自により、就ける職業が決まっていた不平等の時代でした。今は能力さえあれば(お金さえあれば?)総理大臣にまで上り詰める事も夢ではありません。しかし、それを望めばの話しです。何かを与えられるのを待っていても何も起こりません(たまにそれが起こりますが、あなたはそれを首を長くして待ちますか?)。自らが決断、アクションしなければならないのです(今は簡単になりました。買い物などは、Ⅰクリックです)。コンピュータの出現がグローバル化を促進させ、世界の垣根を極めて低くしました。そのグローバリゼーションは垣根が低いが為に、身の回りの仕事や富が簡単に奪われてしまうのです。それと同時に、安価で便利なものが容易に入手できるのです。そんな世界で勝ち抜く為には、上記3つを続けなければなりません。それをベースとして、収穫したデータや断片を自分自身のものになるまで咀嚼して、大きな塊=情報にして初めて、すでに起こった未来が見えてくるのだと思います。(ここで、電光石火のごとく出てくる「勘」による解答も無意識にある大きな情報の塊から生まれたもので、極めて大切な場合があります)その見えてきた未来に向けて、アクションを起こさなければなりません。何を起こすのか?個性・差別化をして、社会に対し尖がらなければならないと考えます。「今までに無い良い製品」「今までに無い良い考え方」「今までに無い良いシステム」「今までに無い良いプロセス」「今までに無い融合から生まれるものも含む、イノベーション・革新」を作り出さなければなりません。これをしなければ生き残る事が厳しくなります。いや、生き残ったとしても、未来において打つ手が無い状況におかれます。ですから今すぐ始めるのが賢明と感じます。
どうすれば良いのか?と、はたと考えてしまいます。そんな時、ドラッカーは言います。「一番危険なのは、外で起こった変化自体でなく、今までのやり方で行動する自分自身のあり方の方」と。
空に向かって答えを下さいと神に祈ったとしても「信者にも起こらない奇跡があなたに起こることは限りなくゼロと断言できます」ですから最後は自分で決断・実行するしかないのです。
そして、グローバル化とは、早い者勝ちの時代で、美味しいところを取られてしまう可能性を考えると、遠回りしている場合ではありません。あなたの得意な、確実に取ることができる仕事を、多くの人が触手を伸ばし、スキあらば奪い取ろうと狙っています。
古代から現代に至る過程は、特権階級のみに富が集中していた時代から、広く全ての人に富の再分配のチャンスが与えられる過程といいかえることもできます。今の時代は、それに向けて着実に歩んできた結果とも言えます。
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